長岡藩の米蔵番だった歴史をもつ遠藤米穀
遠藤米穀の歴史は、江戸時代の長岡藩米蔵番まで遡ります。
新潟県長岡市は、江戸時代には長岡藩の牧野家が治め、長岡城(現在の長岡駅近く)を中心として城下町が形成されていました。その頃の物流は河川を利用した船が中心で、当時魚沼郡からの年貢米も長岡・新潟を経由して江戸へ送られていたといいます。
遠藤米穀がある新潟県長岡市船江町には、当時「上御蔵」という長岡藩の年貢米などを貯蔵する米蔵があり、現在とほぼ同じ場所で私たちの祖先はその上御蔵の米蔵番を務めて参りました。
廃藩置県となって長岡藩がなくなると同時に私たちもその任から解かれ、途中はその時代に応じて色々な商いをしてきましたが、昭和6年に再び米穀に携るようになり現在に至ります。
信頼
長岡は戊辰戦争と第二次世界大戦で、二度戦火に見舞われています。特に第二次世界大戦の長岡大空襲では、中心市街地に大量の焼夷弾が投下され8割が焼失し、遠藤米穀の全ても焼けて無くなり、戦後、一からの復興となりました。
空襲で一切を焼失したため、残念ながら形あるものは後世に残っておりませんが、藩の年貢米という最も大切なものを代々にわたり預かる任を命ぜられていたという「信頼」は、幾度の戦火にも燃え尽きることなく脈々と受け継がれ、また、これからも受け継いでいかねばならないものと考えています。
変化に対応し、続けること
遠藤家の先祖が米蔵番を務めた上御蔵。長岡藩の年貢米を収納する御蔵があったその場所に、弊社は今も変わらずあり続けています。
村々からの年貢米を収納する藩の御蔵には本蔵と枝蔵があり、上組の本蔵が上御蔵です。本蔵には役人が勤務していた御蔵役所があり村々を治める重要な拠点となっていたようです。過去には廃藩や二度の戦火など大きな時代の変化がありましたが、当時の米政策の要となった場所で、今現在も同じく米穀に携り続けることができるのは、いつも時代の変化へ柔軟に対応してきたからだと感じております。これからも遠藤米穀は千変万化する環境に対応しながら、美味しいお米を変わることなく提供し続けます。